
のですが、この年はオールスターを過ぎ、8月には首位に躍り出ました。広島の町の中は垂れ幕と横断幕の乱舞です。何しろ球団創立26年目にして、初めて優勝の2文字が現実味を帯びてきたわけですから。
−中略−
昭和50年の優勝は3人の指導者の賜物だと思いますが、チーム作りの過程で私の印象に残っている指導者をもう一人紹介したいと思います。昭和49年の暮れから翌50年の5月途中まででしたが、監督としてチームを率いたジョン・ルーツは料理で言うと大切な隠し味にあたると思います。彼は就任した時に選手を集めてこう言いました。「君たちは能力も高い。それなりの教育も受けている。しかし、勝つ執念が欠けている。なぜなら君たちは優勝の経験がないからだ。わたしはこのチームを引き受けたときに絶対優勝できると思った。だから引き受けた」。彼はまた、常に笑顔を絶やすなとも言いました。笑顔をもっているのは勝者です。だから、笑顔でいられない自分をみつけたら練習場へ行けということでした。
−中略−
ルーツ監督は、練習にしても何にしてもメリハリを大切にしました。私は昭和50年に三塁手にコンバートされ、居残りで守備練習を一所懸命やりました。練習時間が長くなれば当然疲れてきます。ノックの練習に対し、エラーが3本、4本と連続することもあります。するとルーツ監督はノッカーをぱっと止め、私に近づいて聞きました。今やっていた練習は優勝するために必要なのかどうなのかと。私も、3本も4本もエラーして必要ですとは言いづらいので、必要ではないと答えるわけです。するとルーツ監督も、私もそう思うと答えました。このグランドは優勝に本当に必要な技術を修得するためにある優勝に必要ないものはここで練習するなということです。日本のコーチならば3本も4本もエラーしたら激怒するところです。私も含めて、なにしろ“千本ノック”の文化があるわけですから、「疲れたか」と聞かれて「はい。疲れました」と答える習慣がないのです。アメリカ的発想は逆で、疲れているのに、やってもいいことは残らない。悪い癖がついたらそれを取り除くのにまた時間がかかるので、疲れて効果があがらないようなことはすべきではないという考え方でした。
ルーツ監督には、勝つという執念や自分たちの力を信じるということのほかに、もう一つ大切なことを教わりました。それは時間を大切にするということです。春のキャンプで私はバスに乗るのが遅れたことがあります。それも大幅にではなく、わずか5秒のことでした。
その結果バスの出発が5秒遅れましたが、乗り込んで来た私に対し、いきなり監督が拍手するわけです。そして監督はペナルティーとして明朝5時に起きて来るようにと言いました。ここにいる全員の時間を人生の中で5秒奪ったということは大変なことであり、これは返すことができないということでした。初めは私は冗談ではないかと思いましたが、とりあえず5時にロビーへ降りて行きました。ところが、そこにルーツ監督がちゃんと待っていました。私はルーツ監督の指導者としてのありかたに、正直言って感動しました。言った以上は自分も一緒に実行するという姿勢です。
−中略−
私は広島という球団に在籍し、ちょうど2つのチームを経験したような気持ちを持っています。優勝を経験する以前と、経験した後の2つです。どこが一番大きく変わったのかということですが、やはり優勝したときの喜びを知っているかどうかということに尽きます。優勝の喜びは、最後まであきらめないという気持ちに変化しました。アンパイアがホームプレートの上で、ゲームセットと言った瞬間があきらめる瞬間であるということを共通理解として各選手が持ったのが昭和50年以降のチームであったと思います。さまざまな疑問や矛盾の答えが最終的に出るのが、勝った瞬間ではないでしょうか。なぜあの場面でライト打ちが必要だったのか。なぜあの場面でバントしなければならなかったのか。すべての答えが勝つことによって出るわけです。勝つことのみにこだわっては人は育たないとよく言われますが、勝たなければ答えが見つからないこともあると私は思います。負けたら負けたで、ああすればよかった、こうやればよかったという反省だけしか
前ページ 目次へ 次ページ
|

|